12月の千種町。
降り積もった雪に身動きが取れず、横で動く除雪車を見ながら「早くやんでくれ」と神棚へ神頼み、そして自宅で雪搔きです。

スキー場もある千種町は、宍粟市の中でも毎年積雪の多い地域。
スコップやスノーダンプを使い、汗をかきながら作業をしていると「これらが無かった時代はどうしてたんだろう・・・」と想像しゾッとしました。


科学の進化によって、便利になった世の中に感謝する一方で、田舎に住んでみると「神様(目に見えない大きな力)」と多く関わってるなぁとも実感する事も多いです。


その昔は天候が荒れると「神様が怒っている」と神社にお供え物をして、豊作ならば「神様のおかげです」と収穫祭として感謝をささげました。日々の生活の中に「神秘」や「神事」というものが、深く根付いています。

生活の面では「悪いことはお天道様(神様仏様やご先祖様)が見ているよ!」と、小さな頃、親や祖父母に言われたのを思い出します。そう言われたら「悪い事は出来ないなぁ」と、身がしまる思いをして不思議と悪さができなくなるものです。まぁ子供のことなのでスグに忘れて悪さして、怒られてましたけどね(笑)

科学技術が発達して安定した生活ができたり、トラブルや災害などの回避や被害を抑える事もできる。
それでも田舎では祭りや神事を続けていた、いやそれらが出来たからこそ祭りや神事としてお返ししていたのかもしれない。


災害などを始めとする自然や神秘の「人類の科学技術を上回る大きな力」それらを目の当たりにしたから、自然やそれらに関わる神秘に祈りを捧げ祭り行う、畏敬の念を示し、その力の恩恵にあやかれるかもしれないからなのかな?

そう思うと今の時代、昔と今では科学技術の差は大きくなったけど、自然や神秘に向き合う姿勢は大して変わっていない「流れのままにやり過ごす」か「立ち向かって抗う」かだ。
僕は田舎で生活するようになって、「両方あり」でもいいような気がしてきた。


自然の驚異に対して、現代の科学技術を使い出来る限りの対策を取った後は、「無事でいますように」と神頼みをする。今にして思えば色々な局面でそうしてきた、科学技術の発達するスピードに振り回されて、見失っていたのかもしれない。

「科学技術は発達する事に越したことはない。」でも「自然や神秘は科学技術の予想の上を行く事もある。」そんな現代に田舎に住んで「科学技術の力を利用する」「自然や神秘の力を理解する」その両方を大事にすると思うよ。安心って「科学技術を土台にした安心」もあれば、「自然や神秘に守られている安心」もある。どちらか一方だけを取って、もう片方を否定しなくてもいい。

田舎に住んで科学技術と自然・神秘のバランスが取れたような感覚がある。

「不思議が人を成長させてくれる」

それが田舎ですね。